前のページで、野球の例えを使って、引き寄せというものの真相についてお話ししました。
その中で、
- 引き寄せられない可能性や
- 引き寄せられないかもしれない不安
というのが一体何なのかということも、簡単にお話ししましたが、ここでもう少し詳しくお話してみたいと思います。
幻想の「引き寄せられない可能性」
あなたの意識の中にある世界に、「野球をしたい」という思考が現れ、「野球」という概念が現れ始めます。
その思考自体が、すでに「野球という概念の現れ」の一部なのですから、
「あなたが何もせず、ただ静かに見守っていれば」
その先で、野球という形が自然と現れることになります。
ですが、そこに間違って〈私〉という幻想の行為者を登場させてしまうと、小さな部分しか見ることができない〈私〉によって、野球という一つの概念の完璧な現れが、バラバラのパーツに分解されてしまいます。
バラバラのパーツは、バラバラなのですから、どれかが揃ったり揃わなかったりするかもしれません。
- 全部揃うかもしれないし、全部揃わないかもしれないし
- スムーズに揃うかもしれないし、揃わないかもしれないし・・・
というように、全体で一つであるものがバラバラにされた瞬間、あらゆる幻想の可能性が生まれることになるのです。
そして、その中に、
- 引き寄せられる可能性や
- 引き寄せられない可能性
も生まれ、それに対する「期待や不安」、それに関わる「葛藤や奮闘」なども生まれることになります。
〈私〉から見た幻想のストーリー
〈私〉は、自分が主体だと思い込んでしまうので、意識の中の世界に現れた「野球をしたい」という、純粋な一つの思考を「自分のもの」として抱え込み、
- 「〈私〉が野球をしたいと思い立った」
- 「〈私〉は、野球をしたいという〈私〉の願望を叶えたい」
という、本当はどこにも存在しない、幻想のストーリーが始まることになります。
ですが、お話を進める前に、改めてしっかりと確認しておいてください。
本当は、「野球という概念に含まれる全て」は、全体として一つのものであり、バラバラのパーツなどというものは、どこにも存在しないのです。
つまり、ここから先のお話は、
「どこにも存在しない幻想についてのお話」
であり、本当はそれについて何かを考える必要など、全くないのです。
- 心配する必要もなければ
- 対策を考える必要もなく
本当に、何をする必要もありません。
ですが、あなたが映画にのめり込むあまり、主人公になりきってしまい、「自分=〈私〉」だと間違って思い込んでしまっているうちは、ここから先の幻想のストーリーも、
「心配したり、対策を考えなければならない、現実のお話」
のようになってしまうのです。
では、あなたにしっかりとご理解いただくために、
「本当は何の重要性もない、幻想のお話」
を続けていきます。
「野球という概念」が形を取って現れるとき、本来であれば、そのために必要な構成要素の全ては、一つも欠けることなく、必ずすべて揃います。
そうでなければ、野球という概念が形になることができないのですから、それは当然のことであり、心配を差し挟む余地は一切ありません。
ですが、そこに〈私〉を介入させ、
「〈私〉が野球をしたいと思い立った」
ということになってしまうと、そのさまざまな必要要素のうちの、どれかが揃わないかもしれない可能性が生まれてしまいます。
そして、それは、あらゆる形の心配や不満として現れることになります。
- 「野球をしたいけれど、自分にできるだろうか?」
- 「道具をすべて揃えるには、お金がかかる」
- 「近くにいいチームがあるだろうか?」
などと心配するかもしれませんし、実際に野球ができる環境が整っても、
- 「がんばってもレギュラーになれなくて、試合に出られなかったら嫌だ」
- 「試合に出られても、失敗したら恥ずかしい」
- 「もし負けてしまったらどうしよう」
などと余計な心配や不満が尽きません。
そうやって、静かな水面に無数の騒々しい波が立ち、自然で完璧な「野球という概念の現れ」はすっかり見えなくなってしまうのです。
「引き寄せたい」があるから「引き寄せられない」がある
たくさんの不安や不満を抱えている〈私〉が、引き寄せの法則というものに出会うと、〈私〉は自分の不安や不満を解消するために、
「〇〇を引き寄せたい」
と願うようになります。
ですが、完璧な現れを無数のパーツに分解してしまった〈私〉の世界では、すべてにおいて、
- 「うまくいく可能性」と
- 「うまくいかない可能性」
が存在しています。
最初からすべてが揃っている完璧な全体を、パーツに分解してしまったがゆえに、
「一つ一つのパーツを引き寄せる必要性」
が生まれ、そしてその一つ一つに、
「引き寄せられる可能性と、引き寄せられない可能性」
があるのです。
前のページでお話した通り、「野球をしたい」が自然と現れたなら、当然、そのために必要な能力や、道具や、場所や、状況は、すべて完璧に揃います。
すべては「野球」という概念の一部でしかないのですから、本当は、揃うも揃わないもないのです。
ですが、一つ一つに「引き寄せられる可能性」と「引き寄せられない可能性」が存在している〈私〉の世界では、当然、
「どれかは揃ったけれど、どれかは揃わない」
という結果が生まれることになります。
もちろん、「すべてが揃う」という可能性もありますが、同時に、「すべて揃わない」という可能性もあり、あらゆる可能性の中のどれが起こるかは、誰にもわからないのです。
わからないからこそ、〈私〉は自分が望む通りの結果が起こるよう願い、引き寄せの法則を学んで、懸命に実践することになりますが、
「〈私〉が懸命になればなるほど」
完璧な世界が映し出されている水面はどんどん波立っていってしまい、完璧性はどんどん覆い隠されていってしまうのです。
最初から何もせず、ただ静かに信頼して見守っていれば、完璧な野球という概念の現れを楽しむことができたのに、
「間違って〈私〉などというものを、そこに存在させたがために」
このようなゴチャゴチャとした、不安定なストーリーが展開することになってしまったのです。
本当はすべては幻想でしかない
ですが、改めて振り返ってください。
本当は、〈私〉などというものは、どこにも存在しません。
存在しない〈私〉が見ているストーリーの全てもまた、全く実在しない幻想でしかありません。
それは、寝ている間に見ている夢のようなもので、どこにも実在しない、単なるイメージでしかないのです。
目を覚ませば、夢はすべて消え去り、そこで起きていたように見えたことが、実際にあなたに影響を与えることはありません。
同じように、あなたが今、
「自分が経験している現実」
だと思っているものは、すべて、〈私〉を登場させてしまったがために生まれた、単なる思い込みのイメージでしかありません。
本当は、あなたの世界に、
「望んでいることを引き寄せられない可能性」
などというものは存在しないし、本当のあなたには、何を引き寄せる必要もないのです。
夢の中の世界は、眠っている間は現実に見えるように、この世界は、今のあなたにとっては完全なる現実に感じられるでしょう。
その状態では、
「何も引き寄せる必要などない」
と言われても、
「いや、それでもやはり、私はこの願望を引き寄せたいのだ」
と思ってしまうかもしれません。
ですが、「何も引き寄せる必要などない」というのは、
「そんなことは叶わなくても、あなたはすでに十分幸せなのですよ」
ということではないのです。
「あなたが本当に望んでいること」は、あなたが本当に自然な状態でいれば、すべて自然と形になるのです。
ですから、まずは、〈私〉ではなく、本当のあなたの状態に戻ることだけを考えてください。
そうすれば、その時そこにある願いの全ては、ただそれ自体で自然と形になっていきます。
あなたの世界は、今この瞬間も、至福と平安に満ちた、ClearでCalmな世界であり続けています。
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