この世界には、本当は、
- 「個別の人」や
- 「個別のパーツ」
というものは、一切存在しません。
「独立した個」というのは、実在しない幻想の〈私〉だけが見ている、幻想の存在なのです。
ですが、私たちはこの世界の中のさまざまな人や物のすべてを、独立した個別の存在として認識してしまっています。
それは、「鳥」という全体を見る、自然な見方ではなく、
- 「くちばし」と
- 「羽」を
個別の独立した存在として捉えるというのと、全く同じことです。
とてもおかしな例えではありますが、私たちは本当にそのくらい、おかしな見方をしてしまっているのです。
そして、そんなおかしな見方をしてしまうと、とてもおかしな問題が起こってきます。
「くちばしが空を飛ぶ」唯一の方法
当たり前のことですが、くちばしには空を飛ぶことはできません。
もし、あなたが間違って、自分をくちばしだと思い込み、自由に空を飛べる羽をうらやましく思ったとしたら、あなたは、
「くちばしである自分が、空を飛べるようになる方法」
を必死で探し、そのために必要だと言われる訓練を始めるかもしれません。
ですが、どんなに訓練しようとも、くちばしには、空を飛ぶことなどできるはずがありません。
どんなに真剣に努力を重ねたとしても、
「あなたが自分を、くちばしだと信じ切っている限り」
あなたには、決して空を飛ぶことはできないのです。
ですが、あなたは、くちばしというパーツではありえません。
なぜなら、パーツなどというものは、どこにも存在しないからです。
「もし、あなたが、くちばしであるならば」
あなたには、決して空を飛ぶことはできません。
ですが、あなたは、くちばしではありません。
あなたは、どんなパーツでもなく、いかなる時も常に「完璧な全体」でしかないのです。
完璧な全体でしかないあなたに、不可能なことなど何もありません。
空を飛べるようになるために必要なことは、
「空を飛べるようになる方法を探すこと」
ではなく、
「自分は、くちばしというパーツではなかった」
と気がつくこと、ただそれだけなのです。
ただ、そのことに気がつけば、
「性質の違う、さまざまな個別のパーツ」
という、思い違いの幻想は消え去り、ただ、
「一切の不足や不安や不満が存在しない、あらゆる面で完璧に満たされた、至福と平安の世界」
だけが、ただ自然と現れることになるのです。
あらゆる願望が自然と叶う「願望のない世界」
あなたが今見ている、波だった水面の世界では、「野球」があれば、そこには必ず、
- 「勝つ人」も
- 「負ける人」も
存在します。
勝つ人も負ける人も存在するので、
「試合に勝ちたい」
という「願望」が生まれることになります。
ですが、そこには「負ける人」も必ず存在するのですから、その願望が叶うかどうかはわかりません。
叶うこともあれば、叶わないこともあるでしょう。
その世界においては、
- 「願望を引き寄せられる人」と「引き寄せられない人」がいて
- 「願望を引き寄せられる場合」と「引き寄せられない場合」がある
というのは、当然のことなのです。
一方、「完璧な全体だけ」が存在している、本来の自然な状態の世界には、
「独立した構成要素」
というものが存在しないので、「野球」があっても、そこには「勝つ人」も「負ける人」も存在しません。
ただ、「野球」という概念の自然な現れがあるだけであり、そこには「独立した存在同士の対立」というものは存在しないのです。
「負ける人」がいないので、完全に純粋な世界においては、「試合に勝ちたい」という願望が生まれることもありません。
そこに「勝敗」という概念の現れがあったとしても、それは鳥のくちばしと羽のように、
「野球という概念の現れに必然的に含まれる、『野球』の一部」
であるだけであり、勝敗が問題になることはないのです。
もちろん、あなたが求めているのは、
- 「願望がなくなること」ではなく
- 「願望が叶うこと」
でしょう。
ですが、実際には、この「願望がなくなる」ということは、
「願望が自然と叶う」
ということに直結しているのです。
000のページでお話ししたことを思い出してください。
もし、あなたにとって勝敗が問題とならなければ、あなたは、
「何とかして勝ちたい」
といって、水面に手を突っ込み、目の前の出来事を変えようとすることはありません。
そのときには、当然、水面が波立つこともなく、本来の完璧な状態の世界が映り続けることになります。
そのとき、もし「勝ちたい」という思いが湧き上がることがあるとしたら、それは、完璧な自然の流れの中で、完璧に形になっていくでしょう。
お話しした通り、「完全に純粋な世界においては」願望というものは存在しません。
ですが、そこまでいかなくとも、日々の訓練によってその状態に近づいていけば、願望は、
「どうしても叶えたくて、自分で何とかしようと、水面に手を突っ込んでしまう」
という不自然なものから、
「ただ静かに眺めていれば、自然と形になっていく、ごく自然な流れの一部」
へと変わっていくのです。
水面に映る世界の状態は、あなたの状態と完全にイコールですから、あなたが安心して静かに眺めているならば、その中に湧き上がる自然な思いもまた、
「安心できる、静かで穏やかな流れの中で、自然と表現されていく」
ということになるのです。
「望む」と「叶う」は同じ
何かを望む思いが静かに湧き上がり、静かに穏やかに形になっていく。
ここで、あなたに目指していただきたいのは、そんな自然な場所です。
本来の自然な状態の中では、「願望を実現させる必要」はありません。
あらゆる概念は、ただ、
「人間という媒体を通して、自然と表現されていくだけ」
であり、そこには何の努力も必要ないし、それ以前に「努力をする人」もいないのです。
「そこに、常に完璧な全体があること」
を確かに知っていたなら、何かを望む気持ちが自然と湧き上がった時には、
「その先で、それが自然と起こる」
ということも、完璧にわかっています。
- 「何かを自然と望むこと」と
- 「何かが自然と起こること」
は、すべり台の上と下のようなもので、どちらも同じ一つのものの一部分でしかありません。
「階段の上の部分がないすべり台」は存在しませんし、「すべり下りた下の部分がないすべり台」も存在しません。
同じように、「叶う」がない「望む」も存在しないのです。
もし、私たちが思っているような形の「叶う」が起こらなかったとしても、そのときには、それを超える素晴らしい形の表現がその先に待っているというだけのことです。
「願望」という概念そのものが、いかに不自然なものかが、おわかりいただけるでしょうか。
それは、ただ単に、
「何かをしたいという自然な思い」
であるだけなのです。
- 「トイレに行きたい」と思ったら、それは自然と起こります
- 「ごはんを食べたい」と思ったら、それは自然と起こります
私たちは「トイレに行くことを、願い、望んだり」はしませんし、「ごはんを食べたい」という思いを「願望」などと呼んだりはしません。
ですが、もしここが砂漠で、水を求めてさまよっていたなら、そのときには、
「水を飲みたい」
ということを「願い、望み」、それは「願望」と呼ばれることになるでしょう。
私たちは、「叶わない可能性があるもの」だけを「願望」と呼んでいるのです。
ですが、本来の自然な世界の中では、「起こらないことを望む必要」はありません。
「ごはんを食べる」
という出来事が、すでにそこにあるから、
「そこにつながっていく自然な流れの一部として」
その手前に、
「ごはんを食べたい」
があるのです。
それは、すべり台の上と下のように、完全にひとつながりの、「食事」という概念の現われであるに過ぎません。
もし、そこに、
「ごはんを食べる」
という出来事がないなら、その手前に、
「ごはんを食べたい」
がある必要もありません。
「私の願望は『トイレに行きたい』とか、『ごはんを食べたい』というようなこととは次元が違う」
と言うのは、歪んだ世界しか見ることのできない、幻想の〈私〉に過ぎません。
幻想の存在の、幻想の思いを信じて、
「叶わない可能性がある世界」
を見続ける必要など、どこにもありません。
ただ、本来の自然な世界をありのままに見ることを選んでください。
大切な願望を実現させるために必要なことは、
「願望を実現させようとすること」
ではなく、幻想の〈私〉のフィルターを取り除いて、
「自分でがんばって引き寄せようとしなくても、自然な願望が自然と叶う、本来の世界」
をきちんと見られるようになること。
「完璧な全体を眺めて楽しんでいる、本来の立ち位置」
に戻り、そこに留まれるようになること。
本当に、ただそれだけなのです。