引き寄せにおいて、手放すというのは確かに大切なことです。
ですが、重要な理解が抜けてしまうと、「手放したつもり」の罠に陥ってしまいます。
- 一体、何を手放すのか?
- 本当に手放すとはどういうことなのか?
ここできちんと整理していただき、正しい理解を深めてください。
《検索から来られた方へ》
このサイトの記事は、冒頭でお伝えしている重要な真理を前提としています。
お時間のある方は、こちらからお読みください。(※新規タブで開きます)
願望は決して手放すことはできない
- 「願望は手放せば引き寄せられる」
- 「執着を手放せば、願望を引き寄せられる」
引き寄せにおける手放すという概念について、一般的に言われているのはそのようなことでしょう。
ですが、それを聞いて、
「よし、願望を引き寄せるために願望を手放そう」
と思っても、何も起こりません。
「願望を引き寄せるために」願望を手放す?
それは一体、どういうことでしょうか?
「願望を引き寄せるために」執着を手放す?
この言葉の矛盾に気がついてください。
「引き寄せのために手放そう」
という言葉は、全く意味をなしていません。
願望を手放し、執着を手放すとは、どういうことでしょうか?
手放すということは、「もう、それが叶っても叶わなくても、どうでもいい」ということです。
「願望を引き寄せるために、願望や執着を手放す」
という言葉を言い換えると、
「その願望が叶ってほしくて、どうでもよくなどないから、叶っても叶わなくてもどうでもよくする」
という、とてもおかしな日本語になってしまいます。
つまり、「願望を引き寄せたい」と思っている人には、願望を手放すことも、執着を手放すこともできないということです。
手放すとは意図的にすることではない
手放すというのは、「しようと思ってすること」ではなく、「ただ自然と起こること」でしかありません。
「手放そう」と思う人は、どうでもいいと思っていない、手放せていない人であり、
「手放せていない人が、手放せていないものを手放す」
ことはできません。
「手放そう」と思わない人は、すでに手放すということが自然と起こった人であり、その人には「手放そう」などという思いがやってくることさえありません。
何だかゴチャゴチャしたお話になってしまいますが、つまり、手放すとは、誰かが意図的にすることではなく、
「気づいたら、その願望のことをすっかり忘れていた」
という自然な状態であるだけであり、「気づいたらすでに手放していた」という過去形でしかあり得ないのです。
願望を手放すということについて考えている時点で、手放すことはできないということなのです。
誰が何を手放すのか?
そもそもの、
「誰が何を手放すのか?」
というところを、きちんと整理しましょう。
この世界は、完全な無人の自動運転の世界です。
世界のすべては、ただそれ自体で自動的に、完璧に動いているだけであり、そこには「何かをする誰か」は一人も存在しません。
それならば、そもそも、何かを手放そうとしているその人は、一体誰なのでしょうか?
この世界には、唯一の源泉だけが存在していて、すべては源泉そのものであり、「独立した個別の何か」は一切存在しません。
それならば、その誰かが手放そうとしている「私の願望」というものは、一体何なのでしょうか?
本当は、源泉の自然な現れがあるだけであり、その現れの構成要素の一つとして、「何かをしたい」という自然な思いが現れているだけです。
そして、それをただ流れるままにしておけば、その「何かをしたい」が自然と、その「何か」として形を現すというだけのことです。
そこに手放すべき何があるというのでしょうか?
「何かをしたい」という自然な思いは、「誰かの願望」ではなく、単なる完璧性そのものである源泉の自然な現れであるだけなのです。
そこには、誰もいないし、何もありません。
ただ源泉の完璧な現れが、自然なままに現れているだけなのです。
そこに、手放すとか手放さないとか、そんな話は最初から出てきようがないのです。
「願望」などというものを生み出したのも、「手放す」などというおかしな話を持ち出したのも、実在しない幻想の〈私〉に過ぎません。
「手放す」というおかしなものを持ち出したのが、決して手放すことのできない〈私〉自身なのです。
こんなナンセンスな矛盾の中で何をどう考えていても、何の意味もありません。
今すぐに、その輪の中から出てきてください。
本当に手放すべきもの
本当に手放すべきものがあるとしたら、それは、
「私はこの世界の中で願望を持ち、それを引き寄せたいと望んでいる個人だ」
という、あなたの間違った思い込みだけです。
ですが、もしあなたが、
「『願望を引き寄せたいから』その間違った思い込みを手放そう」
と思うなら、最初にお話しした矛盾にはまり込んでしまいます。
そこに動機がある限り、〈私〉という間違った幻想がいて、〈私〉がいる限り、何も手放すことはできないのです。
とはいっても、あなたが自分で動機をなくすことはできません。
動機をなくすこと自体に、また同じように動機がついて回ってしまうからです。
本当に動機がなくなるためには、「〈私〉のいない、至福と平安の世界にとどまること自体」が唯一の目的にならなければなりません。
そのためには、
「〈私〉のいない至福と平安の世界が、どれほど素晴らしいものか」
を繰り返し体感しなければなりません。
プログラム受講者の方は、いつもの実践を、可能な限り何度も繰り返して、その場所の素晴らしさを味わい続けてください。
プログラムをお受けいただいていない方は、
- このサイトを何度も何度も、繰り返し読み続け
- 行為者がいないことを確認する実践を繰り返して
知的な理解を浸透させていくことに専念してください。
そうやって、体感を積み重ねた結果として、
- 「引き寄せたいから」
- 「この願望を叶えたいから」
- 「この問題を解決したいから」
といった不自然な動機なく、ただ純粋に、
「この至福の中にとどまっていたい」
という思いが湧き上がったときに、一切の障害物のない、本当の至福の流れが、ありのままに流れるようになるのです。
あなたの世界は、今この瞬間も、至福と平安に満ちた、ClearでCalmな世界であり続けています。
– Clear –