あなたが引き寄せたいと願っているものが、
- とても重要なものであったり
- 急を要するものであったり
という場合には、
- 「本当に引き寄せられるだろうか?」
- 「もし引き寄せがうまくいかなかったら、どうしよう」
などと不安になってしまうこともあるでしょう。
時には、「不安」を超えて、「恐れ」や「恐怖」のようになってしまうこともあるかもしれません。
不安というのは、至上の引き寄せの障害となるだけでなく、それ自体とても苦しいものです。
ですが、不安は、
「分解してその正体を確かめれば」
消えてなくなってしまいます。
あなたに安心していただきたいので、これから、そのために必要なことをお話しさせていただきます。
ぜひ丁寧にお読みいただき、不安な気持ちが現れたときには、落ち着いて、早く安心の中に戻ってきてください。
《検索から来られた方へ》
このサイトの記事は、冒頭でお伝えしている重要な真理を前提としています。
お時間のある方は、こちらからお読みください。(※新規タブで開きます)
なぜ不安が起こるのか?
あなたが引き寄せたいものが、
「それがあったらうれしい」
というようなものである場合には、それほど不安という感情が起こることもないかもしれません。
ですが、望んでいるものが、
「それがなければ困る、それがなければ大変だ」
というようなものである時には、どうしても不安というものが湧き上がってきてしまいます。
引き寄せが起こるということに、100%の確信がない限り、不安は湧いてきてしまうでしょう。
つまり、不安が起こるということは、
「あなたは、引き寄せが起こらない可能性があると思っている」
ということです。
では、本当に、「引き寄せが起こらない可能性」はあるのでしょうか?
引き寄せというのは、「誰かが主体となってすること」ではなく、この世界で自然と起こっている、本来の自然な世界の属性の一つです。
重力の力が働かない瞬間がないように、本当は、引き寄せの力が働かない瞬間などありません。
つまり、本来の自然な状態であれば、そこには「引き寄せられない可能性」などというものは存在し得ないのです。
にも関わらず、あなたが引き寄せに関して不安を感じているとしたら、それは、あなたが、
- 「引き寄せの力が働き続けている、この世界の完璧性」よりも
- 「世界に歪みを生み出す〈私〉という幻想」の方を、より強く信じてしまっている
ということです。
不安の大きさが示すこと
あなたは、「そこに叶えたい願望があるから」それを引き寄せたいと願っているでしょう。
願望とは、「今ないものが欲しい」という気持ちです。
ですが、全てに満たされた完璧性そのものであるこの世界には、「ないもの」など何一つ存在しません。
つまり、願望がそこにあるという時点で、あなたは「何か間違ったもの」を信じてしまっているということなのです。
「何か間違ったもの」
それがすべての根源です。
〈私〉とは、決して完璧性を見ることのできない、限られた小さな存在です。
完璧な全体の中の小さな一部分しか見ることができないので、いつもあらゆる種類の「不足」を認識します。
もちろん、本来の自然な世界には、不足などというものは存在しないのですから、
- 「不足というものを認識している〈私〉」と同様に
- 「不足そのもの」
もまた、実在しない幻想でしかありません。
ですが、あなたが〈私〉の存在を信じてしまっているために、あなたは〈私〉が見ている幻想の不足も信じてしまうことになるのです。
- 「お金が少し足りない」というときと
- 「お金がものすごく足りない」というとき
どちらの方が「引き寄せたいという願望」が大きくなるかは、明らかでしょう。
そして、どちらの方が「引き寄せに対する不安」が大きくなるかも、明らかです。
「不足が大きいから願望が大きくなり、願望が大きいから不安が大きくなる」
このことは、普通に考えていただければご理解いただけるでしょう。
ですが、そこで止まらず、もう一歩深く掘り下げたいのです。
「不足が大きい」ということが、結果的に「不安が大きい」ということにつながっています。
ですが、この世界には本当は不足などというものは存在せず、その幻想の不足を生み出してしまっているのは、幻想の〈私〉です。
つまり、
「不足の大きさ」=「幻想の〈私〉の存在を信じてしまっている間違いの根深さ」
だということなのです。
〈私〉の存在を深く信じ込んでしまっていると、その〈私〉が言う
「そこには不足があり、それを埋め合わせなければ大変なことになる」
という言葉も、深く信じてしまうことになり、その結果、
「もし引き寄せられなかったら、どうしよう」
という大きな不安を抱えることになってしまうのです。
そして、〈私〉の言葉を深く信じるほど、完璧な至福の法則への信頼は下がり、結果的に、スムーズな至福の流れを邪魔し続けることになってしまうのです。
不安とは〈私〉そのもの
以前、「野球をする人」は、野球という概念そのものだとお話ししました。
それと同じことを、今度は「読書」という概念でお話ししてみます。
読書という概念が形になるためには、
- 本を読む人と
- 読まれる本
が必要です。
そして、そのどちらも「読書」という概念の現れの一部であり、読書そのものです。
つまり、「本を読む人」と「読まれる本」は同じ一つのものであり、言い換えるなら、
「本を読む人は、本そのもの」
なのです。
もしわかりにくいようでしたら、ゆっくりお考えいただきながら、何度か繰り返し読んでみてください。
では、それと全く同じことを、「不安」という概念でお話ししてみます。
不安という概念が現れるためには、
- 不安を感じる人と
- 不安という感情
が必要です。
そして、そのどちらも「不安」という概念の現れの一部であり、不安そのものです。
つまり、「不安を感じる人」と「不安という感情」は同じ一つのものであり、言い換えるなら、
「不安を感じる人は、不安そのもの」
なのです。
〈私〉が不安そのものなのですから、そこに〈私〉がいる限り、不安が消えることはありません。
〈私〉が不安そのものなのですから、あなたが〈私〉の存在を信じている限り、不安が消えることはないのです。
ですが、〈私〉は本当にそこにいるのでしょうか?
もし、〈私〉が実在しないならば、〈私〉=不安そのものなのですから、不安というものもまた、実在しないということです。
あなたが抱えているその不安というものは、本当はどこにも存在しません。
それは、
「そこにあるように見えるけれど、実際には実在しない」
蜃気楼のようなものなのです。
あなたは今、風に揺れるカーテンをオバケだと信じて怖がってしまっている状態です。
ですが、
「それはただのカーテンであって、本当はオバケなどどこにも存在しない」
と本当に理解すれば、オバケに対する恐怖も、オバケという幻想と一緒に消えてなくなってしまいます。
不安は、どこにも実在しないので、こうして徹底的に分解してしまえば、消えてなくなってしまうのです。
蜃気楼も、カーテンのオバケも、あなたにどんな影響を与えることもできません。
あなたはいくらでも、その幻想を信じて、いくらでも怖がることができます。
ですが、あなたがどんなに怖がったとしても、幻想があなたに本当に影響を与えることなどできないのです。
どうぞ、そのことにしっかりと気がついてください。
そして、少しでも早く、当たり前にそこに存在している至福と平安の中に戻ってきてください。
不安に対する本当の対処法
この世界の中には、「不安への対処法」というものが、数多く存在します。
ですが、この世界の中で何かをすることは、例外なく、水面を波立たせることにしかなりません。
不安を解消するためのどんなテクニックも、
「不安を感じ、不安を解消しようと行動する〈私〉」
という幻想を強めてしまうだけなのです。
水面が澄み切った静かな状態である時、そこには、至福と平安に満ちた、完璧な世界だけが映し出されます。
そこに〈私〉が存在することはできません。
幻想の「行為者」である〈私〉は、水面を揺らす「行為」がなければ存在できないのです。
不安を生み出している根本原因である〈私〉に、「不安解消法」という「するべき行為」を与えて、力を与えないようにしてください。
どんな素晴らしいテクニックも、すべて、〈私〉にするべき行為を与えて、不安の原因を増大させてしまうだけです。
- 「行為者」がいる限り、〈私〉は存在します
- 不安そのものである〈私〉が存在する限り、不安は存在します
でも本当は、この世界には行為者はいません。
ですから、〈私〉は存在せず、不安も存在しません。
不安を生み出す根源であり、不安という概念そのものである〈私〉を世界に存在させてしまっている、その重大な間違いを正しましょう。
そして、本来のあなたの、至福と平安に満ちた心穏やかな立ち位置に戻り、
「最善だけが流れ続ける世界を、ただ静かに見守る」
という幸せの中に戻ってください。
もし不安が強い時には、このお話を一度お読みいただいただけでは、すぐにまた幻想の不安が戻ってきてしまうかもしれません。
そんな時には、このページを何度もお読みいただき、あなたの中にその真理を浸透させることを繰り返していってください。
大丈夫です。
ここへ来てくださったあなたは、必ず安心の中に戻ることになります。
なぜなら、
- この文章も
- この文章を読んでいるあなたも
同じ「安心」という概念の現れであり、安心そのものだからです。
あなたの世界は、今この瞬間も、至福と平安に満ちた、ClearでCalmな世界であり続けています。
– Clear –