引き寄せにおける抵抗とは、
- 「せっかく願望が実現しようとしているのに、それに反することを考えてしまう」とか
- 「引き寄せたいけれど、自分には無理なのではないかと思ってしまう」とか
そういったお話ではありません。
一般的には、そのように言われているかもしれませんが、そういったことは、
「『本当は常に起こり続けている至上の引き寄せ』を妨害してしまう、幻想の〈私〉の、幻想の理論」
でしかありません。
引き寄せにおける唯一の、本当の抵抗とは、一体何なのか?
それを、ここでしっかりと理解してください。
《検索から来られた方へ》
このサイトの記事は、冒頭でお伝えしている重要な真理を前提としています。
お時間のある方は、こちらからお読みください。(※新規タブで開きます)
傲慢な〈私〉の、傲慢な「抵抗」
「引き寄せにおける抵抗とは何なのか」
という疑問への答えとしては、先ほど例に挙げたような、
- 「せっかく願望が実現しようとしているのに、それに反することを考えてしまう」
- 「引き寄せたいけれど、自分には無理なのではないかと思ってしまう」
といったことが、正解であるように思えるかもしれません。
ですが、そういったお話は、根本的な前提が間違ってしまっているのです。
ここまで、この世界は完全な無人の自動運転の世界だということを、繰り返しお話ししてきました。
「完全な無人」なのですから、そこには、
- 何かを考えてしまう人も
- 何かを思ってしまう人も
存在しません。
この世界の中で「考える」とか「思う」と言われていることは、本当は、
「無限の意識の中に自然と浮かび上がっている、『思考』という現れ」
に過ぎず、それは「誰かが考えたり、思ったりする」というようなものではないのです。
真実はただ、
「そこに、そういう思考が現れている」
というだけなのです。
ですが、〈私〉という幻想の行為者をそこに存在させてしまうと、
「この世界では、〈私〉という主体が何かをすることで、何かの出来事が起こる」
という、全くおかしな話が、すべての大前提になってしまいます。
だから、
「〈私〉が、引き寄せの流れに反するようなことを考えることで、起こる出来事が変わってしまう」
などという、とんでもない傲慢な考えが、さも正しいことのように、まかり通ってしまうのです。
そんなとんでもない間違いを信じてしまっていては、本当の幸せにつながる、本当の引き寄せを経験することはできません。
まずは「傲慢な前提」を正す
「引き寄せにおける本当の抵抗とは何か」というお話をするためには、まず、その傲慢な〈私〉の思い違いをしっかりと正さなければなりません。
- 〈私〉などどこにも存在しないし
- 存在しない〈私〉が、出来事に影響を与えることなど、あるはずがありません
〈私〉というのは、本当は「起こる出来事の媒体」でしかないのですから、〈私〉がどう考えるかによって、出来事が変わったりはしません。
「〈私〉が考えている」というその思考自体が、その出来事の一部なのであり、それがどんなものであるかは、
「その出来事が世界に現れたその時点で」
すでに決まっているのです。
そこに〈私〉という個人の意思などというものは、一切存在しません。
引き寄せが起こるか起こらないかということに、
「私が何をどう考えるか」
などということとは、一切関係ないのです。
引き寄せにおける本当の抵抗とは何なのか
「引き寄せが起こるか起こらないか」
と言いましたが、本当はそもそも「引き寄せが起こらない」などということはありません。
引き寄せとは、重力と同じように、
「本来の自然な、完璧性そのものの世界で、常に自然に起こり続けている、ごく自然な作用」
であり、起こったり起こらなかったりするようなものではないのです。
ですから、あなたが見ている世界が、
「〈私〉のいない、本来の自然で、完璧な状態」
に戻れば、引き寄せを邪魔する抵抗などというものも、どこにも存在しなくなってしまうのです。
ということはつまり、「〈私〉の存在そのもの」が、引き寄せを邪魔する唯一の抵抗だということです。
〈私〉がそこにいるというだけで、完璧な至福と平安の流れが乱されてしまいます。
実際には、〈私〉などというのは幻想に過ぎないので、至福の流れが本当に乱されることなどないのですが、それが本当に乱されたかのように見えてしまうのです。
すると、本当はずっと目の前にある完璧な世界が見えなくなってしまい、あなたには、
「引き寄せという、本当は常に起こり続けている、単なる当たり前の自然現象が、起こらなくなってしまったように」
見えてしまうのです。
正確に言えば、引き寄せにおける唯一の抵抗とは、〈私〉という幻想の存在そのものです。
ですが、このことを、あえてもう少し、今のあなたにご理解いただきやすい表現でお伝えするならば、引き寄せにおける抵抗とは、
「そのやり方では嫌だ」
ということです。
本当は、最善の流れが確かに目の前にあるというのに、そのことを理解できない〈私〉が、
- 「それは私の思う形ではないので、それでは嫌だ」
- 「私が思う通りの形であるべきだ」
と言って、最善の自然な流れに、不自然に抵抗しようとすること。
それが、静かな水面を波立たせ、そこに映る、
「あらゆる引き寄せが常に完璧に起こり続けている、至福の世界の景色」
を見えなくしてしまうのです。
例えば、北海道に行きたいのに、なぜか車が南へ向かってしまうというとき、
- 「それは間違っている」
- 「どう考えても最善とは思えない」
- 「私が思う通りの最善の形に修正しなければならない」
そう言って、無理やり進路を北へ変えようとするのが〈私〉です。
ですが、実際には、車で北へ真っ直ぐ向かうより、南にある空港へ行って、飛行機に乗った方がはるかに早くて快適なのかもしれません。
でも、〈私〉は「そのやり方では嫌」なのです。
「自分が思う最善」に沿った形でなければ嫌なのです。
だから、最善の流れに逆らって「抵抗」するのです。
だから、〈私〉がそこにいる限り、決して完璧な至福と平安の世界を見ることはできないのです。
〈私〉を信じるか、世界の完璧性を信じるか
とはいっても、それは結果を見てみなければわからないことですから、
「北海道に行きたいのに、南へ向かってしまっている車を、そのままに、安心して眺めている」
ということのためには、この世界の完璧性に対する「信頼」が必要なのです。
- 「〈私〉を信じれば」、あなたは〈私〉になりきって水面を波立たせ、抵抗を生み出すことになります
- 「世界の完璧性を信じれば」、あなたは、あらゆる最善がただそれ自体で自然と起こる、本当の引き寄せの世界を見ることになります
これは、とても重要な選択です。
ですが、あなたには決して、後者を選ぶことはできません。
なぜなら、この世界には、「自分の意志で何かをする行為者」=「何かを選ぶ行為者」は存在しないからです。
もしあなたが自分で選ぼうとすれば、そこに、「自分で選ぼうとする行為者=〈私〉」を存在させることになってしまうのです。
それならば、一体どうすればいいのでしょうか?
その答えは、一つしかありません。
それは、
「〈私〉など本当にどこにも存在しないのだ」
という、この世界の唯一の真理を確認し、浸透させ続けること。
ただそれだけです。
答えはいつもと同じです。
なぜなら、真理はただ一つであり、すべきことも一つしかないからです。
そこに〈私〉を存在させてしまうという、唯一の間違いさえ正されれば、あとは誰も何もしなくても、すべてはただそれ自体で、完璧に流れていくようになります。
「何かをする人」が誰もいなくなるので、すべてはただ完璧に流れていくのです。
あなたの世界は、今この瞬間も、至福と平安に満ちた、ClearでCalmな世界であり続けています。
– Clear –