すべては、一瞬の例外もなく、常に完璧に流れ続けています。
この世界には完璧性しか存在しないのですから、それは当たり前のことです。
ですが、そこに、
- 「もしこの願望が叶わなかったらどうしよう」
- 「叶うように何とかしなければ」
などとおかしなことを言う、おかしな存在が現れます。
とはいっても、何度もお伝えしている通り、この世界には完璧性しか存在しないのですから、そんなものは、実在しない霧のような幻想に過ぎません。
そして、それが、完璧な世界に存在するはずのない、
- 邪魔な石や
- 障害となる滝
という幻想を生み出す根源です。
ですが、その「根源」は実際にはどこにも存在しないので、邪魔なものも障害となるものも、実際にはどこにも存在しません。
少しわかりにくいので、また例え話でお話ししてみます。
「ボールとバットとグローブと、投げる人と打つ人」の絵
例えば、あなたが、
「野球の絵を描いてください」
と言われたとします。
具体的な表現はさまざまですが、そのとき、あなたが描く絵の中にはきっと、
- ボールや
- バットや
- グローブ
といった道具もあれば、
- 投げる人や
- 打つ人
などの人もいるでしょう。
他にも、
- グラウンドや
- スコアボードや
- ベンチ
などが描かれることもあるかもしれません。
ですが、あなたが描いたのは、「野球」であるはずです。
仮に、あなたが描いた絵の中に、
- ボールと
- バットと
- グローブと
- 投げる人と
- 打つ人
が描かれていたとしても、あなたは決して、
「私は、ボールとバットとグローブと投げる人と打つ人を描きました」
とは言わないはずです。
あなたは、ただ、
「私は野球の絵を描きました」
と言うでしょう。
このとき、あなたが描いた絵は、シンプルに、
「『野球』という概念の現れ」
なのであって、個別の道具や人は、ただ単に、必然的な構成要素として、その表現の中に含まれているだけです。
- ボールもバットもグローブも描かず
- 投げる人も、打つ人も描かずに
「野球」という概念を表現することはできないでしょう。
それらの道具や人は、本当は、個別の道具や人ではなく、単に「野球という概念の一部」なのです。
石を見ている石
あなたが野球の絵を描くとき、その絵の中に描かれたものの全ては、「野球」です。
道具や人だけでなく、
- フェンスの向こうに見える建物も
- 空も
- 雲も
ただ、「野球」であるだけです。
そのとき、もし空に飛行機が飛んでいれば、その飛行機もまた、
「野球」
であるだけです。
そこに、野球を見ている人がいれば、その人もまた、
「野球」
であるだけです。
「野球」という概念が表現されているその絵の中に含まれるあらゆるものが、ただ「野球」であるだけなのです。
では、静かに流れる美しい小川の中に、大きな石があって、その石を見ている人がいるとき、その人は一体何でしょうか?
少し、ゆっくり考えてみてください。
その人が、「邪魔な石」を見ているのなら、その人は「邪魔な石」そのものです。
その人が、美しい小川の流れにアクセントを加える完璧な石を見ているなら、その人は「完璧な石」そのものです。
その人の世界に、「邪魔な石」は存在しません。
もしその人が、個別の石という存在にまったく注意を払わず、ただ美しい小川の、完璧に美しいその流れ全体だけを見ているのなら、その人は「完璧に流れる、美しい小川」そのものです。
その人の世界に、「石」は存在しません。
「完璧に流れる、美しい小川」
の絵を描いたとき、もしその流れの中に石があったとしても、それは単に、完璧な流れの自然な構成要素であるだけであって、「個別の石」というものはどこにも存在しないのです。
存在しないものを存在させる、存在しない人
あなたは、空を飛んでいる鳥を見たときに、
「私は空飛ぶ羽とくちばしと目と足としっぽを見ている」
などとは言いません。
それはただ単に、「鳥を見ている」だけであって、個別のパーツなどは、そこに必然的に含まれているだけです。
「個別のパーツ」というものは、不自然な見方をしたときにだけ現れます。
本来の自然な世界の中には、「個別のパーツ」というものはどこにも存在せず、ただ、
「自然な全体」
だけが存在しています。
自然な全体だけを自然に見ている人の目に、「個別のパーツ」というものが映ることはありません。
そこに、そのパーツが含まれていたとしても、その人が個別のパーツを認識することはありません。
ですから、
「完璧に流れる、美しい小川」
を見ている人が、「邪魔な石」を見ることは決してありません。
その人の世界には、どんなパーツも存在しないのです。
でも、もしあなたが「邪魔な石」を見ているのなら、あなたは「邪魔な石」そのものです。
- 「野球を見ている人」は「野球」そのものであり
- 「邪魔な石を見ている人」は「邪魔な石」そのものです
つまり、完璧な美しい小川の流れの中に、邪魔な石を存在させているのは、邪魔な石そのものなのです。
でも、本当は「パーツ」というものはどこにも存在しないので、「邪魔な石」というのは、単なる幻想に過ぎません。
「邪魔な石」が幻想なので、「邪魔な石を見ている人」もまた幻想です。
- 「そこに邪魔な石があるせいで、この願望が叶わなかったらどうしよう」
- 「叶うように、あの石を何とかしなければ」
という人もまた幻想です。
あなたは今、その幻想を信じてしまっているので、あなたの目の前にある完璧性は、今は覆い隠されてしまっています。



