幻想の〈私〉という行為者は、「幻想」なので、実際にはどこにも存在しません。
それはただ、あなたのイメージの世界の中に現れているだけの、実体のないものなのです。
そもそも、世界そのものが、
「無人の、単なる現れ」
でしかないのですから、そこにいる〈私〉も当然、
「幻想、単なる現れ」
に過ぎないのです。
世界とは本当は何なのか?
この世界は、あなたの意識の中に存在していて、それは単なるイメージ、現れでしかないということをお話ししてきました。
では、なぜそんなものが意識の中に現れるのでしょうか?
この「世界の正体」を知ると、〈私〉などというものは本当にどこにも存在しないのだということが、もう少しよくご理解いただけるようになるでしょう。
あなたの意識とは、限界のない無限の空間です。
そして、その無限の空間の中に、あらゆる種類のものが現れています。
そこは、あなたの意識の中の空間なのですから、そこに現れているものの全ては、
「あなたの意識の中にあるもの」
でできています。
あなたの意識の中には、
- 「これまでに、すでに現れているもの」だけでなく
- 「これから現れる可能性のあるすべてのもの」の材料
が存在しているのです。
そして、意識は無限なので、その可能性もまた無限です。
その、世界として現れる、あなたの意識の中にある無限の材料とは、無限の「概念」です。
そして、その無限の概念の中には、
- 「形」という概念も
- 「現れ」という概念も
含まれているので、あなたの意識の中にあるさまざまな概念は、今あなたが認識しているように、
「形を持って現れる」
のです。
本当に現れているもの
わかりやすいよう、簡単な例を挙げてお話ししてみたいと思います。
例えば、あなたが、
「野球の絵を描いてください」
と言われたとします。
具体的な表現はさまざまですが、そのとき、あなたが描く絵の中にはきっと、
- ボールや
- バットや
- グローブ
といった道具もあれば、
- 投げる人や
- 打つ人
などの人もいるでしょう。
他にも、
- グラウンドや
- 応援する人たちや
- スコアボードや
- ベンチ
などが描かれることもあるかもしれません。
ですが、あなたが描いたのは、「野球」であるはずです。
仮に、あなたが描いた絵の中に、
- ボールと
- バットと
- グローブと
- 投げる人と
- 打つ人
が描かれていたとしても、あなたは決して、
「私は、ボールとバットとグローブと投げる人と打つ人を描きました」
とは言わないはずです。
あなたは、ただ、
「私は野球の絵を描きました」
と言うでしょう。
このとき、あなたが描いた絵は、シンプルに、
「『野球』という概念の現れ」
なのであって、個別の道具や人は、ただ単に、必然的な構成要素として、その表現の中に含まれているだけです。
- ボールもバットもグローブも描かず
- 投げる人も、打つ人も描かずに
「野球」という概念を表現することはできないでしょう。
それらの道具や人は、本当は、個別の道具や人ではなく、単に「野球という概念の一部」なのです。
あなたは、鳥を見たときに、
「私は羽とくちばしと目と足としっぽを見ている」
などとは言いません。
それはただ単に、「鳥を見ている」だけであって、個別のパーツなどは、そこに必然的に含まれているだけです。
「羽もくちばしも目も足もしっぽもない鳥」
などというものは存在しません。
「鳥」という概念が表現されるためには、それらのパーツがそこに含まれているということは、
- 必然的で
- 自然で
- 当然のこと
なのです。
つまり、そこに本当に現れているのは、
- 「野球」や
- 「鳥」
『だけ』であって、本来の自然な見方をしている限り、そこに「個別の構成要素」などという問題が生まれることはないのです。
個別の要素しか見られない〈私〉
本来のあなたは、
「自分の意識の中に現れている、完璧性だけが存在する世界の全体を、至福と平安の中で静かに見守り、楽しんでいる存在」
なのだとお話ししました。
それは、上の例で挙げた、
- 「野球」や
- 「鳥」
という概念の完璧な現れ全体を、ただ自然に眺め、楽しんでいる状態です。
前のページで、
「この世界は、全体として完璧なのであって、その一部だけを見ていても、その完璧性を理解することはできない」
とお話ししましたが、本来の状態のあなたにとっては、むしろ、「全体」という一つの選択肢しかなく、「部分」や「構成要素」などというものは存在しないのです。
ですから、あなたが本来の状態を忘れずにいる限り、あなたの目に映るものの全ては、完璧でしかありえません。
ですが、〈私〉という小さな限られた存在には、その「当たり前の全体」を見ることができません。
小さな〈私〉は、
「すべてを細切れにして、独立した無数の構成要素として見る」
ということしかできないのです。
巨大な壁に無数の絵が描かれていても、本来のあなたには、その全体の完璧性だけが見えますが、小さな〈私〉には、個別のパーツを一つ一つ順に見ていくことしかできないのです。
存在しない〈私〉が見る、存在しないもの
あなたが野球の絵を描くとき、その絵の中に描かれたものの全ては、「野球」です。
道具や人だけでなく、
- フェンスの向こうに見える建物も
- 空も
- 雲も
ただ、「野球」であるだけです。
そのとき、もし空に飛行機が飛んでいれば、その飛行機もまた
「野球」
であるだけなのです。
「野球」という概念が表現されているその中に含まれるあらゆるものが、ただ「野球」であるだけなのです。
あなたが鳥を見ているとき、あなたの目に映っているもののすべては「鳥」です。
- 地面も
- 川も
- 鳥が食べている葉っぱも
- 後ろを通りかかった車も
あなたが、本来の自分の立ち位置を忘れずにいる限り、すべてはただ「鳥」であるだけです。
もっと正確に言うならば、そこには「鳥」という部分さえ存在せず、ただ完璧な世界という全体があるだけなのです。
ですが、小さなパーツを、個別のものとして認識することしかできない、小さな〈私〉には、無数の「個別のパーツ」が見えています。
ですが、先ほどお話しした通り、
「個別のパーツ」
などというものは、本来、どこにも存在しないのです。
そして、前のページまででお話ししてきた通り、
「個別のパーツを認識している〈私〉」
という存在もまた、どこにも存在しない幻想でしかありません。
それは、ただ単に、
- 存在しない〈私〉が
- 存在しない個別のパーツを見ている
という、全く存在しない、夢の中のような、空想の世界のお話でしかないのです。