〈私〉というのは、一般的にエゴや自我と呼ばれているものです。
エゴや自我について調べると、数え切れないほどの情報が出てきて、さまざまな定義や属性が出てくるでしょう。
ですが、最も重要なことは、
「〈私〉=エゴ=自我は、どこにも存在しない、単なる概念に過ぎない」
ということです。
単なる概念ですから、そこには何の力もありません。
これから、いろいろとお話ししていきますが、まずはこのことを、しっかりと覚えておいてください。
〈私〉は単なる概念に過ぎず、そこには何の力もありません。
この世界の全ては、あなたの意識の中に存在しています。
意識の中という形のない、空間とさえ呼べない空間の中に、実在する誰かが存在することはできません。
そこに存在しているものはすべて、「概念がイメージとして現れたもの」に過ぎず、何一つ実在ではないのです。
それは、
- 〈私〉というイメージ
- エゴというイメージ
- 自我というイメージ
であり、イメージなのですから、それらが持つ属性もまた、あなたが持つイメージの通りのものになります。
つまり、あなたが、
- 「エゴとはこういうものだ」
- 「自我とはこういうものだ」
- 「エゴがあると、このような問題が起こる」
- 「自我が強いと、引き寄せがうまくいかない」
といったような情報に触れれば、あなたの意識の中に現れているそれらの「イメージ」にも、その通りの属性が備わることになるのです。
それはつまり、
「〈私〉=エゴ=自我は、あなたが与えた分だけ力を持つことになる」
ということです。
あなたが、
「そんなものは概念の現れに過ぎず、何の影響力もないのだ」
と本当に確信すれば、それらの概念があなたに影響を与えることは一切ありません。
ですが、反対に、
「あなたが〈私〉=エゴ=自我の言うことを信じてしまうと」
それは、その通りの力を持つことになってしまうのです。
まず、あなたが、
「〈私〉というものが、確かにそこに存在している」
と信じてしまうと、あなたの世界においては、〈私〉という、本当はどこにも存在しない幻想の行為者が「確かに存在する」ことになってしまいます。
「〈私〉が存在する」というのは、あなたが、まるで映画の主人公になりきってしまうように、
「自分自身が、〈私〉というこの世界の中の行為者なのだ」
と信じてしまうということです。
そうなってしまうと、あなたは、
「完璧に流れる至福と平安の世界を静かに眺めている」
という本来の至福の立ち位置を忘れて、山あり谷ありの世界の中で奮闘することになってしまいます。
「〈私〉の存在を信じる」
ということは、あなたは〈私〉に、「信じるべき存在」という属性を与えてしまっているということですから、あなたは〈私〉の言うことをすべて信じることになってしまいます。
〈私〉というのは、本来の自然な世界の完璧性を見ることができない、限られた小さな存在なので、あなたがその存在を信じれば、あなたは〈私〉が言う通りの、
「不足に満ちた、限られた世界」
を見ることになってしまうのです。
すでに何度も登場している例えですが、〈私〉には「鳥」という完璧な全体が見えず、くちばしや、羽や足といった、バラバラのパーツを見ることしかできません。
全体が見えなければ、それぞれのパーツの関係性もわかりませんから、
「くちばしと羽は、鳥という同じ一つのものだ」
と言われても、それはまるで、
「全くの他人であるAさんとBさんは、本当は一つなのだ」
と言われているようなもので、一体何を言っているのか理解できません。
もちろん、くちばしと羽が、鳥という同じ一つのものであることは当然ですが、〈私〉になりきってしまうと、本当にそれがわからなくなってしまうのです。
ただ、わからなくなってしまうだけでなく、
- 「そんなわけがない」とか
- 「何をおかしなことを言っているんだ」
と否定したり、軽くあしらったりしてしまうことさえあります。
〈私〉が言うことが、本当はどれだけおかしなことなのかが、少しおわかりいただけたでしょうか?
〈私〉とは、そういうものなのです。
では、その〈私〉が今言っていることは、何でしょうか?
それは、
「〈私〉には〇〇が足りない。だから〈私〉は〇〇を引き寄せる必要がある」
ということでしょう。
本当は、意識という限界のない場所に現れている世界に、「不足」などというものが起こるはずはありません。
「限界がない」=「無限」とは、「全てに満ちている」ということなのですから、何かが欠けることなど、ありえないのです。
それは、論理的に考えれば、おわかりいただけるでしょう。
ですが、あなたが〈私〉を信じてしまっていると、あなたは、そんなナンセンスな言葉さえも、何の疑いもなく信じることになってしまうのです。
そして、あなたの意識の中に浮かび上がるイメージであるこの世界には、
「あなたが信じたイメージ=〈私〉が言う通りのものが現れる」
ことになるのです。
限られた存在である〈私〉には、決して満たされた状態を見ることができません。
ですから、あなたが〈私〉の言葉を信じている限り、あなたにもまた、満たされた状態を見ることはできません。
あなたが、「〇〇を引き寄せたい」と思っているのは、あなたが、「〇〇がそこにない」と思っているからでしょう。
ですが、本当はこの世界には、不足は存在し得ないのです。
この世界には「ないもの」も「足りないもの」も、何一つ存在しません。
今、あなたにそれが本当にないように見えているのは、
「あなたが〈私〉の言葉を信じているから」
ただそれだけなのです。
ひとたび、〈私〉の言葉を信じることをやめれば、あなたの世界からは、あらゆる不足が一掃されます。
とはいっても、〈私〉の目線になりきってしまっている状態のままでは、
「あらゆる不足が一掃される」
という言葉の意味も、よく理解できないでしょう。
それは実際に、〈私〉を排除してみなければ、本当には理解することのできないものなのです。
〈私〉が、
「問題があるよ。解決しないと、大変なことになるよ」
と言えば、あなたはそこに問題があると確信し、それを解決するために奮闘することになります。
あなたが「問題がある」という〈私〉の言葉を信じているので、あなたの意識の中の世界にも、本当に問題が現れます。
どんなに実在しないと理屈で言われても、実際に問題が目の前に見えるのですから、対処せずにはいられません。
そうやって、あなたはまた、
「そこに見えている出来事を何とかしなければ」
と、完璧な世界が映る水面に手を突っ込んで、かき回してしまうことになるのです。
水面が乱れれば乱れるほど、完璧な世界は見えなくなり、〈私〉のいう「問題」はますます大きくなったように見えてきます。
すると、あなたはさらに激しく水面をかき回し、どんどんどんどん、水面を波立たせ続けることになってしまうのです。
もう、そんな悪循環の輪からは出てきましょう。
いったん立ち止まり、少しの間、静かにして、本当の世界を確認してみましょう。
あなたは〈私〉の存在を信じ、〈私〉の言葉を信じています。
ですが、〈私〉とは、
- 「くちばしには空を飛ぶことができないけれど、羽は空を飛ぶことができる」
- 「くちばしも、羽のようになるべきだ」
- 「くちばしが空を飛べるようになる方法を見つけなければ」
などと、おかしなことを言っている存在なのです。
くちばしが羽になってしまったら、鳥はどうやってエサを食べるのでしょうか?
足も、しっぽも、すべてが羽になってしまったら、それは一体何なのでしょうか?
そんなことになってしまったら、大空を自由に飛び回れる、鳥という完璧な存在がいなくなってしまいます。
お時間のあるときに、また000からのお話をじっくりと読み返して、〈私〉というのがどんなにおかしな存在であるかを、改めて確認してみてください。
くちばしと羽は、同じ鳥の一部であるに決まっています。
そして、それと全く同じレベルで、
- この世界は、意識の中に浮かび上がっているだけの、完全な無人の世界であり
- そこには、行為者というものは一切存在せず
- つまり、〈私〉などという存在は一切存在せず
- それゆえに、〈私〉が主張する「解決すべき問題」もまた、一切存在しない
ということも、当たり前の事実なのです。
問題はなく、不足もないので、心配する必要もなければ、懸命に対処する必要もありません。
本当に、そこには何の不足も、何の問題もないのです。
ですから、ただ安心してください。
そして、何度も重要な真理のお話を読み返し、真理への信頼を高めていってください。
対処しようとすればするほど、幻想の問題は大きくなっていきます。
対処をやめれば、問題は消えていくのです。
〈私〉ではなく、この世界の至福の真理を信頼する練習を重ねていってください。
あなたの世界は、今この瞬間も、至福と平安に満ちた、ClearでCalmな世界であり続けています。
– Clear –