〈私〉というのは、完璧な映像が映し出されている水面を揺るがす唯一の原因です。
それは一般的に「エゴ」や「自我」と呼ばれるものですが、実在しない幻想に名前をつける必要などないので、〈私〉と呼ぶことにします。
〈私〉というのは、あなたの間違った思い込みに過ぎず、本当はどこにも存在しないので、〈私〉が立てている水面の波も、本当はどこにも存在していません。
「あるように見えるけれど、本当はない」
というのは、理解しにくいかもしれませんが、それはいわば、
「本当にそこにあるように見えるけれど、実際には実在しない、蜃気楼のようなもの」
と考えていただければ、少し理解しやすいでしょうか。
〈私〉がいると、本当は存在しない不足や不安がそこら中に見えるようになってしまいます。
〈私〉のいない完璧な世界では、すべてが完璧で、不完全なものなど何もありません。
ですが、〈私〉が水面の中で完璧な世界のあちらこちらをいじりまわしてしまうと、水面が波立って、その完璧性が見えなくなってしまうのです。
そこには、本当は、完璧な鳥という存在がいるだけなのに、〈私〉には鳥の全体像が見えないので、足という限られた一部分だけを見て、
- 「これは空を飛ぶことができない不完全な存在だ」
- 「空を飛べるようになる方法を考えなければ」
などと、事実ではないことに騒ぎ出してしまうのです。
あなたが今、
「私には〇〇が足りないから、〇〇を引き寄せて幸せになりたい」
と思っているのも、この〈私〉の幻想のせいであって、本当はあなたには、足りないものなど何もないのです。
これもまた、今の段階では少しわかりにくい概念かもしれませんが、鳥という全体像が見えたときには、足という一部分だけを見ていたときの感覚が誤りだったことがハッキリと分かるように、
「全体が見渡せる、あなたの本来の立ち位置に戻れば」
すべては明確になります。
大切な理解を積み重ね、浸透させることによって、その幻想の不足や不安や不満を生み出している〈私〉という幻想が薄れてくると、あなたが見ている世界はどのように変わるでしょうか?
まず、あらゆることが、とてもシンプルになってきます。
すべてが完璧であることがわかると、考える必要のあることがなくなってくるのです。
- 計算する必要も
- 予測する必要も
- 心配する必要も
何もありません。
「すべては、行為者なしに、ただそれ自体で自然と、完璧に起こっているのだ」
ということがわかるようになるので、ただ自然に、完璧に流れていく世界の出来事を、ただ手放しに安心して、穏やかな気持で見ていられるようになるのです。
すると、あれこれ考えたり、行動したりして水面を揺るがせてしまう〈私〉という幻想は、ますます薄れていき、あなたの世界は、どんどん至福と平安に満たされていくことになります。
〈私〉がいたために生み出されてしまっていた、おかしな幻想の数々が消えていくと、
「望んでいるのに引き寄せられない」
というおかしなことも、なくなっていきます。
「お腹が空いた。何かを食べたい」
というのは、食事という概念の現れの一部であるだけなので、その後には、
「何かを食べる」
が続くのが、当たり前の、自然の流れというものです。
〈私〉がいなくなれば、ただ当たり前のことが、当たり前に起こるようになっていく、ただそれだけのことなのです。
「引き寄られない」がなくなれば、「引き寄せ」という概念そのものもなくなっていきます。
自然と湧き上がった思いの全ては、ただ自然と形になっていくのですから、「引き寄せ」などという概念が存在する余地はなくなるのです。
そうやって、〈私〉がいなくなっていくと、自然な完璧性が徐々に現れてきます。
正確には「現れてくる」のではなく、
「それを覆い隠していた邪魔なフィルターが取り除かれて、ずっとそこにあった完璧性が、ありのままに見えるようになる」
ということです。
その世界は、本当に澄み切っていて、穏やかで、至福に満ちた、ClearでCalmな世界です。
あなたの世界は、今この瞬間も、至福と平安に満ちた、ClearでCalmな世界であり続けています。
– Clear –