皆さんが引き寄せに関して、どんなことを知りたがっているのか、「引き寄せ」という言葉と一緒に検索されている言葉を調べてみたところ、
「叶う、叶わない」
という言葉が出てきました。
引き寄せの法則と呼ばれるものを活用することによって、
- 願いが叶う人と、叶わない人がいる、とか
- 願いが叶う場合と、叶わない場合がある
というようなお話だと思います。
では、そもそも、
- 「叶う」とは何でしょうか?
- 「叶わない」とは何でしょうか?
一体、「何が」叶うのでしょうか?
「本当に起きていること」を見ていきましょう。
塔の上と下
何か高いものを例にとって考えてみましょう。
例えば、スカイツリーの上の方と下の方、というのを想像してみてください。
上は遥か遠くまで見渡せる、とても高い場所ですが、下は地面と同じ、もしくはさらに下の低い場所です。
では、少しおかしな話ですが、もし何もない宇宙の空間にポツンと、スカイツリーの展望フロアだけが存在していたら、そこは「高い」でしょうか?
何もない宇宙の空間にポツンと、スカイツリーの1階のフロアだけが存在していたら、そこは「低い」でしょうか?
では、何もない宇宙の空間にポツンと、スカイツリーだけが存在していたら、それは「高い」でしょうか?
何もない宇宙の空間にポツンと、平屋の家が存在していたら、それは「低い」でしょうか?
「高い」は「低い」がなければ存在できません。
「低い」は「高い」がなければ存在できません。
「高い」が生まれた瞬間、「低い」が生まれ、その間の無限の中間点が生まれます。
「低い」が生まれた瞬間、「高い」が生まれ、その間の無限の中間点が生まれます。
事実は、スカイツリーの展望フロアも、1階のフロアも、どちらも同じスカイツリーであるだけです。
「叶う、叶わない」というのも、これと全く同じことです。
「叶う」は「叶わない」がなければ存在できません。
「叶わない」は「叶う」がなければ存在できません。
「叶う」が生まれた瞬間、「叶わない」が生まれ、その間の無限の中間点が生まれます。
「叶わない」が生まれた瞬間、「叶う」が生まれ、その間の無限の中間点が生まれます。
事実は、「叶う」も「叶わない」も、どちらも同じ一つのものであるだけです。
叶うかもしれないし、叶わないかもしれない
あえて名前をつけるとしたら、「叶う」も「叶わない」も同じ「願望実現」というものの一部です。
「そこに、引き寄せというものの力によって叶えたい願望がある」
ということが、それ自体の中に、
「叶うと、叶わない」
を含んでいるのです。
でも、本当はそれはただの「願望実現」であるだけです。
「スカイツリー」は本当は高くも低くもありませんが、
- スカイツリーの上と
- スカイツリーの下
を見ている人の世界には、「高いところ」と「低いところ」が存在します。
「高いところと低いところがあるので」
その人は、高いところか、低いところか、その中間のどこかへ行くことになるでしょう。
同じように、本来の自然な状態の願望実現には、「叶う」も「叶わない」もありませんが、
- 「叶う」と
- 「叶わない」
を見ている人の世界には、「叶うことと叶わないこと」や「叶う人と叶わない人」が存在します。
「叶うと、叶わないがあるので」
その人は、叶うか、叶わないか、もしくはその中間のどこかの点を経験することになるでしょう。
これはただ、
「叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。何が起こるかわからない」
と、当たり前のことを言っているだけです。
ですが、これが真理なのです。
「叶う」と「叶わない」という両極を見ている人の世界には、両方の可能性が存在しています。
- その人自身の経験を見てみても、叶うこともあれば、叶わないこともあるでしょう
- その人の周りにいる人たちも、叶う人もいれば、叶わない人もいるでしょう
- 時々叶う人も、たいてい叶う人も、あまり叶わない人もいるでしょう
- 叶う人と叶わない人、どちらの割合が多いことも少ないこともあるでしょう
それが真理なのです。
あなたに、「叶えたい願望」があるのなら、それは叶うかもしれないし、叶わないかもしれません。
それは、
「どれだけ真剣に引き寄せを学び、取り組んでいるか」
ということでもなければ、
「どんないい方法を実践しているか」
ということでもありません。
「ただ、叶うかもしれないし、叶わないかもしれないだけ」
なのです。
この世界の中で生きるということは、両極の間を「運任せ」に進んでいくしかないということなのです。
少し抽象的でわかりにくいかもしれませんので、最後にもう少し整理してみます。
完璧な願望には「叶う」も「叶わない」もない
この世界には、完璧性しか存在していないということは、何度もお伝えしてきました。
その完璧な世界の中に、願望と呼ばれるようなものが現れたのなら、それは、そこに完璧に現れているのです。
そしてそれは、誰の何の努力も必要とせず、ただそれ自体で、完璧なルートを通って、完璧な場所へ流れていくだけです。
その流れの中に、
「叶う、叶わない」
という分かれ道はありません。
「ごはんを食べたい」
が現れたのなら、ただ静かに見ていれば、やがて自然と、もっとも完璧な形で、
「ごはんを食べる」
が現れます。
それが自然なのです。
仮に、スムーズに「ごはんを食べる」という形が現れなかったとしても、私たちが想像するのとは全く違う形で、完璧な結果が完璧に現れるだけのことなのです。
そこに、「叶う、叶わない」などという、おかしな概念はありません。
自然に現れた願望が、自然に流れ、自然と形を成していくという過程において、
「主体となる人」
は一切存在しません。
「その願望を叶えるために何かをする人」は存在しません。
それが自然なのです。
その、外側から静かに見守るべき、自然で、完璧な世界に入り込み、
「引き寄せるを実践する人」
という役になりきって、「自分の」その願望が叶うか、叶わないか、というゲームを始めてしまうと、
「叶うと、叶わない、という両極の間の、運任せのストーリー」
を味わうことになります。
そこでは、その人の願望は叶うこともあれば、叶わないこともあります。
なぜなら、そこに「叶うと、叶わない」があるからです。
「引き寄せの法則を実践する方法」
をどんなに研究しても、叶うこともあれば、叶わないこともある、という世界は変わりません。
「がんばって研究して努力した結果、叶う確率が上がる」
というストーリーもあるかもしれません。
「どんなにがんばっても、まったく引き寄せられない」
と悩むストーリーもあるかもしれません。
空想のストーリーの中のことは、誰にもわかりません。
すべては運任せです。
ですが、その運任せのゲームを楽しみたいと思ううちは、存分に楽しめばいいのです。
それはまったく悪いことではないし、何の問題もありません。
飽きるまで、思い切り楽しめばいいのです。
そして、その世界をたっぷり楽しみ、
「もうこんな世界は十分だ、ここから出たい」
と思った人だけが、
「叶うも叶わないもない、ただ完璧な本当の世界」
を見るための道を進み始めることになるのです。
結局、少し抽象的なままになってしまいましたが、ここから受け取れるものを受け取ってください。
今日も、ClearでCalmな世界を、ただ静かに見ていてください。
– Clear –




